当サイトはプロモーションを含みます。
フグを食べる国って少ないんですよ。
韓国や中国などで一部食べられているものの、こんなにも当たり前にフグを食べる国は日本のほかにありません。
国によっては危険なゲテモノ料理として扱われてさえいます。
しかし、日本で流通するフグは厳しい管理を受けていて、安全に美味しく食べることができますよね。
実は日本のフグ食文化は長い歴史のうえにその安全性が確立されたものだったのです。
日本におけるフグ食の歴史をご紹介します。
目次 非表示
フグはいつから食べられているの?
縄文時代からあったフグ食
フグ食の歴史は古く、縄文時代からフグは広く食されていました。
日本各地の縄文時代や弥生時代の遺跡からフグの骨が見つかっていることからわかります。
フグは沿岸部でも比較的簡単に獲ることができ、当時から貴重な食材であったことがうかがえます。
姥山貝塚でフグ中毒による一家全滅事件発生
縄文人はフグを常食とするなんて、大丈夫なんでしょうか。
当時のフグには毒がなかったのではないか、という説もあります。
しかし、フグ中毒で一家全滅したと思われる遺跡も見つかっていて、どうやらフグには昔から毒があったように思われます。
千葉県市原市にある姥山貝塚では39軒ほどの竪穴住居跡が見つかっています。
この中の1軒で事件は起こりました。
子どもを含む住人5人が食卓を囲んで死亡しているのが見つかったのです。
そしてそこにはフグの骨が・・
一家はフグの中毒によって死亡したのではないかと言われています。
集落の住民たちも気味悪がって放置した結果、そのままの形で発掘されたのでしょう。
この事件に関してフグが犯人であると断定することはできませんが、竪穴住居での生活風景をそのまま残した遺跡は珍しく、大変貴重なものだと言えます。
姥山貝塚公園
所在地:千葉県市川市柏井1-1235
駐車場:なし
問合せ先:047-712-6367(市川市水と緑の部公園緑地課)
文献に登場するフグ
フグは「日本書紀」にもそれらしきものが登場しますが、はっきりとその名が登場するのは平安時代のことです。
918年に記された「本草和名」という薬物事典に「布久(ふく)」の記述があるのです。
「本草和名」は中国の薬物に和名を当てはめて、説明を加えた事典です。
中国では紀元前に書かれた「山海経」という書物にすでに「フグを食べたら死ぬ」とあり、フグの毒性について知られていたことがわかります。
フグ食、ついに禁止される
豊臣秀吉によるフグ禁止令
豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った際、各地からやってきた兵士たちが海を渡るために九州北部に集結しました。
九州では現在でもフグがよく獲れます。
フグに知識のない多くの兵士たちがフグを食べて亡くなってしまうという事態が発生しました。
困った秀吉は「この魚食うべからず」とフグの絵を描いた立て札をたて、フグ食は禁止されることとなりました。
江戸時代のフグ
江戸時代においても、フグは引き続き喫食禁止の対象となりました。
フグ食は各藩によって厳しい取り締まりを受けることとなります。
武士に対する取り締まりは厳しいもので、フグを食べて亡くなったことがわかるとお家断絶の処罰を受けることもありました。
その一方、庶民はこっそりフグ食を続けていたのです。
てっさ・てっちり名前の由来は?
江戸時代、フグは「てっぽう」という隠語で呼ばれていました。
その心は?「鉄砲もフグもあたると大変!」ということだそうで。
ここから、ふぐの刺身を「てっさ」(てっぽうの刺身)、ふぐの鍋を「てっちり」(てっぽうのちり鍋)と呼ぶようになりました。
フグの隠語は他にもあり、長崎県の島原地方では「ガンバ」と呼ばれます。
「ガンバ」とは「棺を・・」という方言なのですが、「棺を用意してでも食べたい魚」という意味なのだそうです。
命を懸けてまで食べられていたフグ、恐るべし!
フグ食の解禁
伊藤博文「春帆楼」でフグ解禁
明治政府のもとでもフグ食は引き続き禁止されていました。
そんなフグに転機が訪れたのは1887年暮れのことでした。
当時初代総理大臣であった伊藤博文が下関の「春帆楼」という料理旅館に宿泊します。
その日は海が時化で魚がとれず、フグしかありませんでした。
実は下関の人たち、フグが禁止されていた間もずっと日常的にフグを食べていました。
当時の文献からフグの調理法も確立されていたことがわかります。
女将が意を決してフグを出したところ、伊藤博文もこれを絶賛。
こんなに美味しいものを食べないなんてよろしくない!というわけで当時の山口県令(知事)にはたらきかけ、翌1888年から晴れてフグ食が解禁となりました。
春帆楼は「ふく料理公許第一号」として認定されたのです。
いくら魚がないからと言って、権力者に禁制のフグを出して大丈夫なのか心配になりますが・・
春帆楼の女将と伊藤博文はもともと懇意で、「春帆楼」の屋号も伊藤博文が付けたものでした。
そんな信頼関係あってのことだったのでしょうか。
ともあれ女将と伊藤博文の粋なはからいにより、一躍フグは解禁されることになりました。
その後、伊藤博文は日清講和会議の場としても春帆楼を指定し、歴史の舞台となりました。
「ふぐ料理公許第一号」である春帆楼は今も下関市の小高い丘の上にあります。
春の海に船の帆が見える、そんなうららかな景観から名づけられた通り、穏やかなひと時を楽しむことができる料理旅館です。
フグの本場下関
フグが解禁されたと言っても、日本全国でフグを食べても良くなったわけではありませんでした。
山口県など一部の地域でのみ、公にフグを食べることが許されていました。
第二次世界大戦後に、各都道府県でフグの取り扱いに関する条例が整備され、晴れてフグは日本全国で安全に食べることができるようになったのです。
このことから、下関は「フグの本場」と呼ばれるようになりました。
現在でも、下関には日本唯一のフグ専門の卸売市場「南風泊(はえどまり)市場」や観光客でにぎわう「唐戸市場」があり、フグの街としてその名をとどろかせているのです。
唐戸市場
所在地:山口県下関市唐戸町5-50
営業時間:月~土5:00~15:00/日8:00~15:00
※店舗により異なる
問合せ先:083-231-0001
歴史あるフグの街、下関へお出かけしてみてください。
あわせて読みたい
下関についての記事はこちら
フグ毒についてのトリビアはこちら